2007年08月18日

「ハンゲーム麻雀3」と「アサヒ芸能」その後

相変わらずハンゲーム「麻雀3」にハマリ続けている。日に最低でも2〜3時間は「ポン、チー、ロン」とやっている。
最初の頃の違和感は消え、対戦者のアバターが即対戦者の顔に思える。徐々にマシンと一体化し、すでにフリーで打っていたころの感覚に近いものを体感するに至っている。現在の僕の称号は<富豪>。獲得マネーは300万円の前半を行ったり来たり、時に割ったりというところ。

ゲーム進行上の手続きに不満はあるものの、ここまで打ち込めば立派なもんだろう。で、ひとつ思い至ったことがある。格闘や戦闘系のゲームにはまりこむ人の気持ちのことだ。ぼくはやらないが、かなり理解できるようになったと思ってかまわないだろう。僕が麻雀に臨場感をあじわうのと同等かそれ以上に、精神的には彼らは確実に「戦い、撃ち、斬り、殺し」ている。特に若ければ若いほどその一体感は強まるのかも。

不満がある。どうしてもっと卓を立てないのだろうか。20人くらいロビーにいるのに1卓しか動いてないなんて、フリー雀荘だったら信じられないことだ。機械が自動的に対戦相手を決める…のなら、参加する意思のある者を待たせてはいけないと思うのだが。それとも参加者が「だれだれとは対戦したくない」とでも言ってるのだろうか。あるいは「仲間」を作ったりして…いやいや、邪推は徒労だ。

「週刊アサヒ芸能」連載、森巣博の「賭けるゆえに我あり」が相変わらずおもしろい。雑誌の連載記事といえば、週刊誌がいくつあってもこれしかない。発行日を心待ちにし、その日は真っ先にコンビニに行く。そして立ち読みする。買わない。「現代」の井出さんの記事も定期購読(定期立ち読み?)してたんだけど、今はない。

ちまたにゴロゴロいるパチンカーやスロッターから、ベガスまでの航空券をカシノがくれるお大尽まで、「賭ける人」はどのくらいいるのか、想像もつかない。<依存>人口のデータがあったら面白いのだけど…。僕も含めてそのひとたちはみな「経験則」をもっている。その経験則とその場の気分やカンとで勝負する。どんな名人や凄腕がいたとしても、かれらはけっして社会的には存在しないに近い。

表現しないからだ。そして、多くの「表現者」は、ちょっとだけ遊ぶことはあっても、賭けない。いや、大きく賭け続けない。ちがうな、賭ける行為を生活の軸に据えない。要するに賭ける人は表現せず、表現する人は賭けない、ということか。

「賭けるゆえに〜」を書いている森巣博という人、「1948年生まれ。雑誌編集者、記者を経て、現在はオーストラリアを拠点に世界のカシノを股にかける国際的バクチ打ちにして兼業作家…」となっている。僕的にはこの人のつづる「賭け」とのかかわりは、経験則や見識をはるかに超えて、いまや「哲学」の領域にまで昇華しているとおもう。

連載18回から始まった「地獄へのロードマップ」は著者がオーストラリアのカシノで会ったブラックジャック専攻の日本人賭人の話だ。しばらくは目が離せない。ミホが股間を使ってため込んだ、虎の子を賭けた大勝負、結果やいかに!!

とかいいつつ、「麻雀3」にそろそろログインの時間かも。昨夜もけっこう遅かったんだよな。
posted by エンデルセン at 09:16 | Comment(0) | TrackBack(1) | 日記
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ハンゲーム 麻雀3
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